継体天皇三年(西暦509年)四月、物部氏の勧請により当目山に鎮斎、その後一度海中神の岩に鎮座したが、風浪の害を避けて現在地に奉遷された。
我が国の最も古い神祭の姿である、海の彼方から訪れる神を、一旦海中の島(神の岩)にお迎えし、海岸の御座穴にお祭りし、
さらに姿美しい神奈美山(かんなびやま=お椀を伏せたような姿の山)に神は降臨されるという、その信仰そのままの山が当目山であった。
したがって、その昔は社殿もなく、山そのものが御本殿(御神座)であった。
延喜式内社で、『延喜式』(西暦927年完成)巻九神名上に「駿河国益津郡四座並小、那閉神社」とある。
昔は年々国司が祭り、弘安四年(西暦1281年)には朝廷より奉幣があった。
現在も大漁神・福神として近郷の崇敬を集めている。
旧除地は二石で明治八年(西暦1875年)二月村社に、同四十年(西暦1907年)三月神饌幣帛料供進社に、大正四年(西暦1915年)五月四日に郷社に列格した。
以前は旧二月十四日に行われていたが、今は二月初午に末社稲荷神社の祭典と合わせ行われている。
漁業者の大漁祈願祭で、以前は鰹・鮪が山のように供えられ、四斗樽の鏡がぬかれ、たいへんな賑わいであった。
浦祭の「浦」は、もともと占いの「ウラ」で、大漁を占う祭りであった。